矢野顕子
2016年12月12日
ジャズ・ピアノ上達法
ジャズ・ピアノ上達のためには、
「ジャズのCDを聴かなければダメだ」
と、いつも生徒たちに言っている。
アッコちゃん(矢野顕子)も
自分の本(えがおのつくりかた)
の中で、次のCDを紹介している。
高校生の時に、
ビル・エヴァンス「モントルーII 」を
「毎日のように聴いていた」
と言っている。
やはり上手くなるには
毎日聴かなくちゃいけない。
「モントルーII 」
Blu-spec CD
ビル・エヴァンス
形式: CD
<内容紹介> Amazonより
巨匠ビル・エヴァンスによる
ピアノ・トリオのライヴの美学。
1970年度
モントゥルー・ジャズ・フェスティバル
実況録音盤。
モントルーII
<曲目リスト>
1. イントロダクション〜ベリー・アーリー
2. アルフィー
3. 34スキドゥー
4. ハウ・マイ・ハート・シングス
5. イスラエル
6. アイ・ヒア・ア・ラプソディー
7. ペリーズ・スコープ
☆リマスタリングを施したBlue-Spec CDで
再発するCTIレーベル究極の40セレクション。
「ジャズのCDを聴かなければダメだ」
と、いつも生徒たちに言っている。
アッコちゃん(矢野顕子)も
自分の本(えがおのつくりかた)
の中で、次のCDを紹介している。
高校生の時に、
ビル・エヴァンス「モントルーII 」を
「毎日のように聴いていた」
と言っている。
やはり上手くなるには
毎日聴かなくちゃいけない。
「モントルーII 」
Blu-spec CD
ビル・エヴァンス
形式: CD
<内容紹介> Amazonより
巨匠ビル・エヴァンスによる
ピアノ・トリオのライヴの美学。
1970年度
モントゥルー・ジャズ・フェスティバル
実況録音盤。
モントルーII
<曲目リスト>
1. イントロダクション〜ベリー・アーリー
2. アルフィー
3. 34スキドゥー
4. ハウ・マイ・ハート・シングス
5. イスラエル
6. アイ・ヒア・ア・ラプソディー
7. ペリーズ・スコープ
☆リマスタリングを施したBlue-Spec CDで
再発するCTIレーベル究極の40セレクション。
2016年12月05日
矢野顕子40周年CD
前回は
矢野顕子デビュー40周年記念
ベストアルバム「矢野山脈」の
「完全生産限定盤」
(CD+DVD, Limited Edition)を
紹介したけれど、今回は
通常盤(CD3枚のみ)を紹介する。
しかし熱心な大ファンならば、
「完全生産限定盤」を手に入れた方が
(絶対に)いいと思う。
その理由は、前回の記事を参照してね。
私も「完全生産限定盤」を手に入れて
大正解だった。
(さらに詳しい理由は後日話す予定だ)
☆
矢野山脈 (通常盤)
Original recording remastered
矢野顕子 形式: CD
矢野顕子
40th Anniversary
究極のALL TIME BEST ALBUM
「矢野山脈」
<内容紹介> Amazonより
◆1976年、
天才ピアノ少女として
矢野顕子がアルバム
「JAPANESE GIRL」で
ソロデビューして、40年。
日本音楽界に残してきた
数々の名曲と伝説を称え、
これまでできなかった、
所属レーベル・事務所の垣根を越えた
究極のオールタイムベストを発売。
矢野顕子が
40年をかけ創り出した
ジャパンポップスの巨大な山
「矢野山脈」ここに誕生!
◆年代ごとに
3枚のCDに分けて収録した
代表曲の数々に加え、
40周年を記念しSeihoを
トラックメーカーに迎え、
新たに再録される
「春咲小紅(矢野山脈ver.)」
も入った51曲。
◆CD全曲最新リマスタリング音源。
矢野山脈 (通常盤)
[収録内容]
■CD1: BEST SONGS 1976-1984
1.気球にのって
2.電話線
3.丘を越えて
4.行け柳田
5.昨日はもう
6.ト・キ・メ・キ
7.ひとつだけ
8.ごはんができたよ
9.在広東少年
10.ただいま
11.春咲小紅
12.ROSE GARDEN
13.愛がなくちゃね
14.どんなときも どんなときも どんなときも
15.ラーメンたべたい
16.GREENFIELDS
■CD2: BEST SONGS 1985-1997
1.はこ
2.David
3.Home Sweet Home
4.そこのアイロンに告ぐ
5.ふりむけばカエル
6.自転車でおいで
7.Watching You
8.BAKABON
9.湖のふもとでねこと暮らしている
10.SUPER FOLK SONG
11.PRAYER
12.SHENANDOAH
13.にぎりめしとえりまき
14.夢のヒヨコ
15.愛について
16.クリームシチュー[The Stew]
17.All The Bones Are White
■CD3: BEST SONGS 1998-2016
1.ひとりぼっちはやめた[QUIT BEING ALONE]
2.Dreaming Girl
3.あたしンち
4.N.Y.C.
5.PRESTO(feat. 岸田繁)
6.中央線(feat. 小田和正)
7.ひとつだけ(feat.忌野清志郎)
8.When I Die
9.変わるし
10.きよしちゃん
11.いい日旅立ち
12.多摩蘭坂
13.セラピー
14.飛ばしていくよ
15.ISETAN-TAN-TAN
16.Tong Poo
17.Welcome to Jupiter
18.春咲小紅(矢野山脈 ver.)
矢野顕子デビュー40周年記念
ベストアルバム「矢野山脈」の
「完全生産限定盤」
(CD+DVD, Limited Edition)を
紹介したけれど、今回は
通常盤(CD3枚のみ)を紹介する。
しかし熱心な大ファンならば、
「完全生産限定盤」を手に入れた方が
(絶対に)いいと思う。
その理由は、前回の記事を参照してね。
私も「完全生産限定盤」を手に入れて
大正解だった。
(さらに詳しい理由は後日話す予定だ)
☆
矢野山脈 (通常盤)
Original recording remastered
矢野顕子 形式: CD
矢野顕子
40th Anniversary
究極のALL TIME BEST ALBUM
「矢野山脈」
<内容紹介> Amazonより
◆1976年、
天才ピアノ少女として
矢野顕子がアルバム
「JAPANESE GIRL」で
ソロデビューして、40年。
日本音楽界に残してきた
数々の名曲と伝説を称え、
これまでできなかった、
所属レーベル・事務所の垣根を越えた
究極のオールタイムベストを発売。
矢野顕子が
40年をかけ創り出した
ジャパンポップスの巨大な山
「矢野山脈」ここに誕生!
◆年代ごとに
3枚のCDに分けて収録した
代表曲の数々に加え、
40周年を記念しSeihoを
トラックメーカーに迎え、
新たに再録される
「春咲小紅(矢野山脈ver.)」
も入った51曲。
◆CD全曲最新リマスタリング音源。
矢野山脈 (通常盤)
[収録内容]
■CD1: BEST SONGS 1976-1984
1.気球にのって
2.電話線
3.丘を越えて
4.行け柳田
5.昨日はもう
6.ト・キ・メ・キ
7.ひとつだけ
8.ごはんができたよ
9.在広東少年
10.ただいま
11.春咲小紅
12.ROSE GARDEN
13.愛がなくちゃね
14.どんなときも どんなときも どんなときも
15.ラーメンたべたい
16.GREENFIELDS
■CD2: BEST SONGS 1985-1997
1.はこ
2.David
3.Home Sweet Home
4.そこのアイロンに告ぐ
5.ふりむけばカエル
6.自転車でおいで
7.Watching You
8.BAKABON
9.湖のふもとでねこと暮らしている
10.SUPER FOLK SONG
11.PRAYER
12.SHENANDOAH
13.にぎりめしとえりまき
14.夢のヒヨコ
15.愛について
16.クリームシチュー[The Stew]
17.All The Bones Are White
■CD3: BEST SONGS 1998-2016
1.ひとりぼっちはやめた[QUIT BEING ALONE]
2.Dreaming Girl
3.あたしンち
4.N.Y.C.
5.PRESTO(feat. 岸田繁)
6.中央線(feat. 小田和正)
7.ひとつだけ(feat.忌野清志郎)
8.When I Die
9.変わるし
10.きよしちゃん
11.いい日旅立ち
12.多摩蘭坂
13.セラピー
14.飛ばしていくよ
15.ISETAN-TAN-TAN
16.Tong Poo
17.Welcome to Jupiter
18.春咲小紅(矢野山脈 ver.)
2016年12月04日
矢野顕子40周年記念CD
矢野顕子デビュー40周年記念の本を
数日前に紹介したけれど、今回は
記念ベスト・アルバムを紹介する。
通常盤はCD3枚のみだが、
完全生産限定盤は、その他に
4枚目のCDとDVD(1枚)、
そして写真集が加わる。
ファンは通常盤ではなく、
「完全生産限定盤」を手に入れよう。
私も「完全生産限定盤」を手に入れて
大変満足している。
やはり映像(DVD)がある方が良い。
それから写真集も。
デビュー前、ジャズピアニストを
目指していた頃のセッション中の
貴重な写真が2枚ある。
私が直接知っているアッコちゃんは、
この頃なので、とても懐かしかった。
その後の40年間を、この限定盤で
じっくり聴かせてもらったけれど、
やはりスゴイ才能があったんだね。
矢野山脈 (完全生産限定盤)
CD+DVD, Limited Edition
矢野顕子 形式: CD
<内容紹介> Amazonより
------------------------
矢野顕子
40th Anniversary
究極のALL TIME BEST ALBUM
「矢野山脈」
--------------------------
◆1976年、
天才ピアノ少女として
矢野顕子がアルバム
「JAPANESE GIRL」
でソロデビューして、40年。
日本音楽界に残してきた
数々の名曲と伝説を称え、
これまでできなかった、
所属レーベル・事務所の垣根を越えた
究極のオールタイムベストを発売。
矢野顕子が40年をかけ創り出した
ジャパンポップスの巨大な山
「矢野山脈」ここに誕生!
◆年代ごとに
3枚のCDに分けて収録した
代表曲の数々に加え、
40周年を記念しSeihoを
トラックメーカーに迎え、
新たに再録される
「春咲小紅(矢野山脈ver.)」
も入った51曲。
◆CD全曲最新リマスタリング音源。
◆完全限定生産盤は
通常盤同様の3CDの他に、
TV・映画・CMに提供した曲や
国内海外アーティストとのコラボ曲、
さらにはデビュー前の未発表音源
「ジャズベとともに」など貴重な27曲を
収録したCD「BEST ANOTHER SONGS」、
これまで発表された
ミュージックビデオを集めたDVD
「BEST MUSIC VIDEO」、
デビュー当時の写真から
今までの数々写真たちを見る
矢野顕子の音楽人生を観る写真集
「BEST PHOTOS 1976-2016」
も同梱した超豪華特別仕様
(A4サイズ特製ケース)。
[収録内容]
■CD1: BEST SONGS 1976-1984
1.気球にのって
2.電話線
3.丘を越えて
4.行け柳田
5.昨日はもう
6.ト・キ・メ・キ
7.ひとつだけ
8.ごはんができたよ
9.在広東少年
10.ただいま
11.春咲小紅
12.ROSE GARDEN
13.愛がなくちゃね
14.どんなときも どんなときも どんなときも
15.ラーメンたべたい
16.GREENFIELDS
■CD2: BEST SONGS 1985-1997
1.はこ
2.David
3.Home Sweet Home
4.そこのアイロンに告ぐ
5.ふりむけばカエル
6.自転車でおいで
7.Watching You
8.BAKABON
9.湖のふもとでねこと暮らしている
10.SUPER FOLK SONG
11.PRAYER
12.SHENANDOAH
13.にぎりめしとえりまき
14.夢のヒヨコ
15.愛について
16.クリームシチュー[The Stew]
17.All The Bones Are White
■CD3: BEST SONGS 1998-2016
1.ひとりぼっちはやめた[QUIT BEING ALONE]
2.Dreaming Girl
3.あたしンち
4.N.Y.C.
5.PRESTO(feat. 岸田繁)
6.中央線(feat. 小田和正)
7.ひとつだけ(feat.忌野清志郎)
8.When I Die
9.変わるし
10.きよしちゃん
11.いい日旅立ち
12.多摩蘭坂
13.セラピー
14.飛ばしていくよ
15.ISETAN-TAN-TAN
16.Tong Poo
17.Welcome to Jupiter
18.春咲小紅(矢野山脈 ver.)
矢野山脈 (完全生産限定盤)
■CD4: BEST ANOTHER SONGS
TV・映画・CMに提供した曲や、
国内外ミュージシャンとのコラボ曲、
デビュー前の未発表音源
「ジャズベとともに」になど
貴重な曲ばかりを集めた27曲を収録。
1.女、キラキラ。男、そわそわ。
2.虹をかけたい
3.White Morning
4.不思議、大好き。
5.不思議、大好き。Part2
6.おいしい生活
7.おいしい生活 Part2
8.さいこうのおかぁさん
9.冬の夜空
10.風になる
11.ゆうぐれ
12.さっぽろ地下街ポイントクラブの歌
13.本をひらくと
14.夕べのうた
15.雪
16.コニャラの歌
17.すこしだけやさしく
18.おなかすいたねの歌
19.すばらしい日々
20.Akiko's Song
21.Sake In The Jar
22.くまんばちがとんできた
23.誰がために
24.しあわせなバカタレ
25.窓
26.1,2,3
27.ジャズベとともに
■DVD: BEST MUSIC VIDEOS
これまで発表された
数々の矢野顕子ミュージックビデオ
を収録予定。
■写真集:BEST PHOTOS 1976-2016
写真で見る矢野顕子の音楽人生。
デビュー当時の写真から
今までの 数々写真たちを
一冊にまとめる。
数日前に紹介したけれど、今回は
記念ベスト・アルバムを紹介する。
通常盤はCD3枚のみだが、
完全生産限定盤は、その他に
4枚目のCDとDVD(1枚)、
そして写真集が加わる。
ファンは通常盤ではなく、
「完全生産限定盤」を手に入れよう。
私も「完全生産限定盤」を手に入れて
大変満足している。
やはり映像(DVD)がある方が良い。
それから写真集も。
デビュー前、ジャズピアニストを
目指していた頃のセッション中の
貴重な写真が2枚ある。
私が直接知っているアッコちゃんは、
この頃なので、とても懐かしかった。
その後の40年間を、この限定盤で
じっくり聴かせてもらったけれど、
やはりスゴイ才能があったんだね。
矢野山脈 (完全生産限定盤)
CD+DVD, Limited Edition
矢野顕子 形式: CD
<内容紹介> Amazonより
------------------------
矢野顕子
40th Anniversary
究極のALL TIME BEST ALBUM
「矢野山脈」
--------------------------
◆1976年、
天才ピアノ少女として
矢野顕子がアルバム
「JAPANESE GIRL」
でソロデビューして、40年。
日本音楽界に残してきた
数々の名曲と伝説を称え、
これまでできなかった、
所属レーベル・事務所の垣根を越えた
究極のオールタイムベストを発売。
矢野顕子が40年をかけ創り出した
ジャパンポップスの巨大な山
「矢野山脈」ここに誕生!
◆年代ごとに
3枚のCDに分けて収録した
代表曲の数々に加え、
40周年を記念しSeihoを
トラックメーカーに迎え、
新たに再録される
「春咲小紅(矢野山脈ver.)」
も入った51曲。
◆CD全曲最新リマスタリング音源。
◆完全限定生産盤は
通常盤同様の3CDの他に、
TV・映画・CMに提供した曲や
国内海外アーティストとのコラボ曲、
さらにはデビュー前の未発表音源
「ジャズベとともに」など貴重な27曲を
収録したCD「BEST ANOTHER SONGS」、
これまで発表された
ミュージックビデオを集めたDVD
「BEST MUSIC VIDEO」、
デビュー当時の写真から
今までの数々写真たちを見る
矢野顕子の音楽人生を観る写真集
「BEST PHOTOS 1976-2016」
も同梱した超豪華特別仕様
(A4サイズ特製ケース)。
[収録内容]
■CD1: BEST SONGS 1976-1984
1.気球にのって
2.電話線
3.丘を越えて
4.行け柳田
5.昨日はもう
6.ト・キ・メ・キ
7.ひとつだけ
8.ごはんができたよ
9.在広東少年
10.ただいま
11.春咲小紅
12.ROSE GARDEN
13.愛がなくちゃね
14.どんなときも どんなときも どんなときも
15.ラーメンたべたい
16.GREENFIELDS
■CD2: BEST SONGS 1985-1997
1.はこ
2.David
3.Home Sweet Home
4.そこのアイロンに告ぐ
5.ふりむけばカエル
6.自転車でおいで
7.Watching You
8.BAKABON
9.湖のふもとでねこと暮らしている
10.SUPER FOLK SONG
11.PRAYER
12.SHENANDOAH
13.にぎりめしとえりまき
14.夢のヒヨコ
15.愛について
16.クリームシチュー[The Stew]
17.All The Bones Are White
■CD3: BEST SONGS 1998-2016
1.ひとりぼっちはやめた[QUIT BEING ALONE]
2.Dreaming Girl
3.あたしンち
4.N.Y.C.
5.PRESTO(feat. 岸田繁)
6.中央線(feat. 小田和正)
7.ひとつだけ(feat.忌野清志郎)
8.When I Die
9.変わるし
10.きよしちゃん
11.いい日旅立ち
12.多摩蘭坂
13.セラピー
14.飛ばしていくよ
15.ISETAN-TAN-TAN
16.Tong Poo
17.Welcome to Jupiter
18.春咲小紅(矢野山脈 ver.)
矢野山脈 (完全生産限定盤)
■CD4: BEST ANOTHER SONGS
TV・映画・CMに提供した曲や、
国内外ミュージシャンとのコラボ曲、
デビュー前の未発表音源
「ジャズベとともに」になど
貴重な曲ばかりを集めた27曲を収録。
1.女、キラキラ。男、そわそわ。
2.虹をかけたい
3.White Morning
4.不思議、大好き。
5.不思議、大好き。Part2
6.おいしい生活
7.おいしい生活 Part2
8.さいこうのおかぁさん
9.冬の夜空
10.風になる
11.ゆうぐれ
12.さっぽろ地下街ポイントクラブの歌
13.本をひらくと
14.夕べのうた
15.雪
16.コニャラの歌
17.すこしだけやさしく
18.おなかすいたねの歌
19.すばらしい日々
20.Akiko's Song
21.Sake In The Jar
22.くまんばちがとんできた
23.誰がために
24.しあわせなバカタレ
25.窓
26.1,2,3
27.ジャズベとともに
■DVD: BEST MUSIC VIDEOS
これまで発表された
数々の矢野顕子ミュージックビデオ
を収録予定。
■写真集:BEST PHOTOS 1976-2016
写真で見る矢野顕子の音楽人生。
デビュー当時の写真から
今までの 数々写真たちを
一冊にまとめる。
2016年12月02日
矢野顕子ジャズを目指す
矢野顕子が
ジャズ・ミュージシャンを
目指していた頃を語っている
貴重なインタビューがあったので、
ぜひ読んでみて下さい。
あなたの勉強のヒントになることも、
きっとあると思いますよ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜10代、
ジャズミュージシャンを
ひたすら目指して〜
矢野顕子(前編)
2016年11月24日
朝日新聞デジタル
ジャズミュージシャンになるために
高校を中退し、
10代からレストランやクラブで
ピアノを奏で、
その才能は瞬く間に
音楽業界で注目を集めた。
矢野顕子さんが
青森で過ごした少女時代の思い出から、
プロを目指して働いた夜の世界、
そしてデビューまでを振り返る。
(文・中津海麻子)
☆
☆子どもの頃から指の赴くまま弾いた
〜〜幼いころの音楽の思い出は?〜〜
東京で生まれ、
3歳からは医師の父が開業した
青森で育ちました。
両親とも音楽好き、
特に父がハワイの民族音楽や
南米のラテンミュージックといった
洋楽が好きで、
そんなレコードがかかっていましたね。
あとはラジオ。
NHKのFM放送が始まり、
いろんな音楽がラジオから
流れてきたことを覚えています。
最初に買ってもらったレコードは、
ウィーン少年合唱団のLP。
私が欲しいって
おねだりしたんだと思います。
あのころウィーン少年合唱団って、
少女たちのアイドルだったから(笑)。
〜〜ピアノを始めたのは?〜〜
3歳から音楽教室に通い始めました。
おそらく母が、戦争中に
自分がやりたくてもできなかったことを
娘に託した……んじゃないかな。
最初は音楽に合わせて体を動かしたり、
その中で初めてピアノに触れました。
小学校の高学年までは
その教室でピアノを習いました。
ただ、私は
周りのどの子とも違っていた。
譜面が読めないし、記憶するのも苦手。
曲の最初の部分は覚えているんだけど、
楽譜の2ページ目ぐらいから
怪しくなってくる。
でも「まぁいいや」って
指の赴くまま即興で弾き続け、
「そろそろかな?」と
思ったところで終わる。
最初の発表会がそうでした。
辻褄(つじつま)を合わせるのが
うまいのね。
それは今もまったく変わらず、
とても役に立ってるけれど(笑)。
教室は
一人ひとりに合わせた指導をしていて、
そうするとロマンチックな曲は
ほかの子に行ってしまい、
私にはちょっと変わった曲しか来なくなる。
「私はそういうキャラクターなんだな」
と、子どもながらに
なんとなくは感じていましたね。
そのうちジャズが好きになって、
クラシック音楽をやる意味は
自分にはないと
思うようになり、
教室には行かなくなりました。
そこからは独学。
ラジオで聴いた曲を
耳で覚えて弾いてみたり。
中学生になると
父がジャズ喫茶に
連れて行ってくれたので、
そこで聴いたレコードを
なーんとなく弾いてみる。
自分流でね。
☆中学でジャズ喫茶通い、
高校からピアノ弾きの仕事に
〜〜中学生でジャズ喫茶通いとは
渋いですね。〜〜
ね(笑)。
でも、父は私を置いて
別の店に飲みに行っちゃうの。
私は一人カウンターに座り、
コーラとか飲みながら
「次はあれを聴かせてください」
なんて言って。
喫茶店の人も困った顔してた(笑)。
11時ぐらいになると
父が迎えに来てくれて、
一緒に家に帰る。
娘を見ていると、
ピアノを弾いたり
音楽を聴いたりしていることが
一番幸せそうで、
それを伸ばしてあげようと
思ってくれたのかもしれませんね。
〜〜中学卒業後は、
青山学院高校に進学するため
上京されます。〜〜
当時、高校で軽音楽部があるのは
青山学院だけだったんです。
入学式が終わるやいなや音楽室に向かい、
入部しました。
でもすぐに「違うかも」と。
とにかく
ジャズに関係のあるところに行きたくて、
でもその前に高校は出なきゃいけない。
だからここに来た。
すべてはプロの音楽家になるための
手段だったんです。
ところが、当たり前だけど
軽音部の人たちは
そうは思ってないわけで。
ロックが
台頭してきた時期だったこともあり、
先輩たちは
みんなロックをやっていた。
「毎日ジャズを頑張るんだ!」
と勇んでいた私には、
なんだか頼りなく見えちゃったんです。
そんな中、
1年生のときに学内で
作曲コンクールがあり、
ベースとドラムと組んだピアノトリオで
自作曲を発表、優勝しました。
青学は初等科から上がってきた
「内部」の人と、
私のように高校受験で入ってきた
「外部」がいて、
微妙に温度差があってね。
外部の、しかも1年の女の子が
優勝をかっさらった、
っていうのですごく話題になった。
「一体、何者だ?」って(笑)。
そして、
同級生たちが「いい曲だね」とか、
私の存在が「励みになる」とか、
ものすごく褒めてくれたんです。
それまでも
褒められたことはありましたが、
直接に反応を感じたのは初めてだったし、
自分のしたことが誰かの励みになる
ということがうれしかった。
音楽でプロフェッショナルの道を歩む、
それが自分にとって天職なんだと
確信した出来事でした。
そんな私を軽音部の先輩の一人が
おもしろがってくれて、
学校外のジャズのサークルとか
大学のサークルとか、
いろんなところに
連れて行ってくれました。
そうこうしているうちに、
レストランからピアノを弾く仕事を
もらうように。
夜遅くまで働くので、
次の日は朝7時に起きて学校に行く、
ということができなくなって。
高校を辞めました。
〜〜ご両親は反対しなかった?〜〜
二人とも意外とあっさりしていました。
父は「しょうがないんじゃないの?」
という感じで。
さらに、私は当時杉並に住んでいて、
夜までレストランで弾いていると
帰りが遅くなってしまう。
若い女の子がそれでは心配だと、
父が知り合いの安部譲二さんに頼み、
当時赤坂にあった安部さんのご自宅に
居候させてもらうことになりました。
そのころ、安部さんご夫妻が
青山でジャズクラブ「ロブロイ」を
やっていました。
私はあちこちのレストランやクラブで
ピアノを弾き、その仕事が終わると
ロブロイに立ち寄って
安部さんたちと一緒に帰るんです。
そして、やがてロブロイでも
弾くようになりました。
〜〜周りは大人ばかりの中、
10代で働き始めた。
どんなことを感じ、学びましたか?〜〜
私はバンドマンの狭い世界しか
知らなかったけれど、
音楽だけでなく、
社会人として大切なことや礼儀、
女性としての振る舞いは、
ホステスさんや
下働きのお兄さん、
安部さんのお店など、
夜の世界が
教えてくれたように思います。
子どもだったから
すべてを
理解していたわけじゃないけれど、
「そうだったんだ」と思うことは
後になってたくさんありました。
世間的に見れば
健全ではなかったかもしれないけど、
私にとってはとても健全な世界だった。
何よりいろんな音楽を聴いて、
いろんな人とセッションし、
本当に音楽に囲まれて生活していた。
音楽を仕事にしたかった私にとって、
それは幸せな時間でした。
☆アルバム「JAPANESE GIRL」でデビュー
〜〜プロとしてデビューすることへの
ビジョンやプランはあったのですか?〜〜
ありませんでしたね。
ロブロイでは演奏しながら
歌ってはいたけれど、
自分はあくまでもピアニストで、
歌手とは言えないと思っていた。
そもそも、レコードを出したり、
自分が表舞台に立ったり
ということは邪道だ、と。
作曲やピアノの伴奏こそが
私のやるべきことなんだ、という、
バンドマンの誇りみたいなものが
あったのです。
でも、
いろんな場所で弾くうちに
スタジオミュージシャンとして
声がかかり、
作曲家の筒美京平さんが
私のことを
すごく気に入ってくださって、
ご自身のセッションに
よく呼んでくれるように。
そこで人脈が広がり、
当時フィリップスレコードで
ディレクターだった
三浦光紀さんが
私のレコードを作りたい
と言ってくれて。
そして76年、
アルバム「JAPANESE GIRL」で
デビューしました。
〜〜表舞台には出たくない
という心境に
変化があったのですか?〜〜
実はその2年ぐらい前に、
自分のバンドで
シングル盤のレコードを
出したことがありました。
そのときはいやだった。
歌うことにも
レコードを出すことにも
興味がなかったし、
「私の音楽はこうです」
と言えない形で世に出るのは
間違っている、
無意味だと思っていたんです。
でも、それからいろいろ考えて、
自分が
「こういうものを作りたい」
という
明確なビジョンがある作品ならば、
それは世に出したいと
思うようになっていったのです。
これまで聞いたことのない音楽をやりたい、
じゃあどんなものが作れるだろう?
そう考えたとき、
自分が日本人であることは
とても大きなファクターとして使えるな、と。
自分の中で
比較的身近だった日本の音楽が
民謡だったので、
青森の民謡や邦楽の楽器に
ついて勉強して。
「JAPANESE GIRL」は
そうした生まれたのです。
〜〜自分が作りたいものを作る、
その手応えはありましたか?〜〜
もちろん!
今でも
素晴らしいレコードだと思っています。
バックバンドに、
A面は
アメリカのリトル・フィートが、
B面は
細野晴臣さんや林立夫さんといった
ティン・パン・アレー、
あがた森魚さん、
ムーンライダーズのメンバーが
参加してくれて、
純粋に楽しかった。
世の中からも作品を認めてもらって、
それはうれしかったけれど、
一方で「天才」と言われることが
たくさんあって。
とても違和感がありました。
自分が秀でているなんて気持ちは
まったくなかった。
これが私だから――。
ただそれだけでしたね。
(後編へつづく)
◇
矢野顕子(やの・あきこ)
1955年、東京生まれ。
青森で過ごした幼少時から
ピアノを始める。
青山学院高等部在学中から
ジャズクラブなどで演奏、
1976年
「JAPANESE GIRL」でソロデビュー。
1979〜80年、
YMOの2度のワールドツアーに
サポートメンバーとして同行。
1981年、
シングル「春咲小紅」がヒット。
ポップスのフィールドにいながらも、
常にジャンルにとらわれない、
自由・ユニークで質の高い音楽を
生み出し続けている。
1990年、
生活と音楽制作の拠点をニューヨークに移す。
2000年代に入り、
エレクトロニカ系ミュージシャンの
故レイ・ハラカミや、
ジャズピアニストの上原ひろみ
などとコラボ。
2015年、
アルバム「Welcome to Jupiter」
をリリース。
また、20周年を迎えた
「さとがえるコンサート」で
TIN PAN
(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)
と共演、
その模様をおさめたアルバムと
映像作品の2作を発表。
2016年、
ソロデビュー40周年を迎え、
11月30日に
オールタイムベスト
「矢野山脈」をリリース。
矢野顕子 公式ホームページ:
http://www.akikoyano.com/
ジャズ・ミュージシャンを
目指していた頃を語っている
貴重なインタビューがあったので、
ぜひ読んでみて下さい。
あなたの勉強のヒントになることも、
きっとあると思いますよ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜10代、
ジャズミュージシャンを
ひたすら目指して〜
矢野顕子(前編)
2016年11月24日
朝日新聞デジタル
ジャズミュージシャンになるために
高校を中退し、
10代からレストランやクラブで
ピアノを奏で、
その才能は瞬く間に
音楽業界で注目を集めた。
矢野顕子さんが
青森で過ごした少女時代の思い出から、
プロを目指して働いた夜の世界、
そしてデビューまでを振り返る。
(文・中津海麻子)
☆
☆子どもの頃から指の赴くまま弾いた
〜〜幼いころの音楽の思い出は?〜〜
東京で生まれ、
3歳からは医師の父が開業した
青森で育ちました。
両親とも音楽好き、
特に父がハワイの民族音楽や
南米のラテンミュージックといった
洋楽が好きで、
そんなレコードがかかっていましたね。
あとはラジオ。
NHKのFM放送が始まり、
いろんな音楽がラジオから
流れてきたことを覚えています。
最初に買ってもらったレコードは、
ウィーン少年合唱団のLP。
私が欲しいって
おねだりしたんだと思います。
あのころウィーン少年合唱団って、
少女たちのアイドルだったから(笑)。
〜〜ピアノを始めたのは?〜〜
3歳から音楽教室に通い始めました。
おそらく母が、戦争中に
自分がやりたくてもできなかったことを
娘に託した……んじゃないかな。
最初は音楽に合わせて体を動かしたり、
その中で初めてピアノに触れました。
小学校の高学年までは
その教室でピアノを習いました。
ただ、私は
周りのどの子とも違っていた。
譜面が読めないし、記憶するのも苦手。
曲の最初の部分は覚えているんだけど、
楽譜の2ページ目ぐらいから
怪しくなってくる。
でも「まぁいいや」って
指の赴くまま即興で弾き続け、
「そろそろかな?」と
思ったところで終わる。
最初の発表会がそうでした。
辻褄(つじつま)を合わせるのが
うまいのね。
それは今もまったく変わらず、
とても役に立ってるけれど(笑)。
教室は
一人ひとりに合わせた指導をしていて、
そうするとロマンチックな曲は
ほかの子に行ってしまい、
私にはちょっと変わった曲しか来なくなる。
「私はそういうキャラクターなんだな」
と、子どもながらに
なんとなくは感じていましたね。
そのうちジャズが好きになって、
クラシック音楽をやる意味は
自分にはないと
思うようになり、
教室には行かなくなりました。
そこからは独学。
ラジオで聴いた曲を
耳で覚えて弾いてみたり。
中学生になると
父がジャズ喫茶に
連れて行ってくれたので、
そこで聴いたレコードを
なーんとなく弾いてみる。
自分流でね。
☆中学でジャズ喫茶通い、
高校からピアノ弾きの仕事に
〜〜中学生でジャズ喫茶通いとは
渋いですね。〜〜
ね(笑)。
でも、父は私を置いて
別の店に飲みに行っちゃうの。
私は一人カウンターに座り、
コーラとか飲みながら
「次はあれを聴かせてください」
なんて言って。
喫茶店の人も困った顔してた(笑)。
11時ぐらいになると
父が迎えに来てくれて、
一緒に家に帰る。
娘を見ていると、
ピアノを弾いたり
音楽を聴いたりしていることが
一番幸せそうで、
それを伸ばしてあげようと
思ってくれたのかもしれませんね。
〜〜中学卒業後は、
青山学院高校に進学するため
上京されます。〜〜
当時、高校で軽音楽部があるのは
青山学院だけだったんです。
入学式が終わるやいなや音楽室に向かい、
入部しました。
でもすぐに「違うかも」と。
とにかく
ジャズに関係のあるところに行きたくて、
でもその前に高校は出なきゃいけない。
だからここに来た。
すべてはプロの音楽家になるための
手段だったんです。
ところが、当たり前だけど
軽音部の人たちは
そうは思ってないわけで。
ロックが
台頭してきた時期だったこともあり、
先輩たちは
みんなロックをやっていた。
「毎日ジャズを頑張るんだ!」
と勇んでいた私には、
なんだか頼りなく見えちゃったんです。
そんな中、
1年生のときに学内で
作曲コンクールがあり、
ベースとドラムと組んだピアノトリオで
自作曲を発表、優勝しました。
青学は初等科から上がってきた
「内部」の人と、
私のように高校受験で入ってきた
「外部」がいて、
微妙に温度差があってね。
外部の、しかも1年の女の子が
優勝をかっさらった、
っていうのですごく話題になった。
「一体、何者だ?」って(笑)。
そして、
同級生たちが「いい曲だね」とか、
私の存在が「励みになる」とか、
ものすごく褒めてくれたんです。
それまでも
褒められたことはありましたが、
直接に反応を感じたのは初めてだったし、
自分のしたことが誰かの励みになる
ということがうれしかった。
音楽でプロフェッショナルの道を歩む、
それが自分にとって天職なんだと
確信した出来事でした。
そんな私を軽音部の先輩の一人が
おもしろがってくれて、
学校外のジャズのサークルとか
大学のサークルとか、
いろんなところに
連れて行ってくれました。
そうこうしているうちに、
レストランからピアノを弾く仕事を
もらうように。
夜遅くまで働くので、
次の日は朝7時に起きて学校に行く、
ということができなくなって。
高校を辞めました。
〜〜ご両親は反対しなかった?〜〜
二人とも意外とあっさりしていました。
父は「しょうがないんじゃないの?」
という感じで。
さらに、私は当時杉並に住んでいて、
夜までレストランで弾いていると
帰りが遅くなってしまう。
若い女の子がそれでは心配だと、
父が知り合いの安部譲二さんに頼み、
当時赤坂にあった安部さんのご自宅に
居候させてもらうことになりました。
そのころ、安部さんご夫妻が
青山でジャズクラブ「ロブロイ」を
やっていました。
私はあちこちのレストランやクラブで
ピアノを弾き、その仕事が終わると
ロブロイに立ち寄って
安部さんたちと一緒に帰るんです。
そして、やがてロブロイでも
弾くようになりました。
〜〜周りは大人ばかりの中、
10代で働き始めた。
どんなことを感じ、学びましたか?〜〜
私はバンドマンの狭い世界しか
知らなかったけれど、
音楽だけでなく、
社会人として大切なことや礼儀、
女性としての振る舞いは、
ホステスさんや
下働きのお兄さん、
安部さんのお店など、
夜の世界が
教えてくれたように思います。
子どもだったから
すべてを
理解していたわけじゃないけれど、
「そうだったんだ」と思うことは
後になってたくさんありました。
世間的に見れば
健全ではなかったかもしれないけど、
私にとってはとても健全な世界だった。
何よりいろんな音楽を聴いて、
いろんな人とセッションし、
本当に音楽に囲まれて生活していた。
音楽を仕事にしたかった私にとって、
それは幸せな時間でした。
☆アルバム「JAPANESE GIRL」でデビュー
〜〜プロとしてデビューすることへの
ビジョンやプランはあったのですか?〜〜
ありませんでしたね。
ロブロイでは演奏しながら
歌ってはいたけれど、
自分はあくまでもピアニストで、
歌手とは言えないと思っていた。
そもそも、レコードを出したり、
自分が表舞台に立ったり
ということは邪道だ、と。
作曲やピアノの伴奏こそが
私のやるべきことなんだ、という、
バンドマンの誇りみたいなものが
あったのです。
でも、
いろんな場所で弾くうちに
スタジオミュージシャンとして
声がかかり、
作曲家の筒美京平さんが
私のことを
すごく気に入ってくださって、
ご自身のセッションに
よく呼んでくれるように。
そこで人脈が広がり、
当時フィリップスレコードで
ディレクターだった
三浦光紀さんが
私のレコードを作りたい
と言ってくれて。
そして76年、
アルバム「JAPANESE GIRL」で
デビューしました。
〜〜表舞台には出たくない
という心境に
変化があったのですか?〜〜
実はその2年ぐらい前に、
自分のバンドで
シングル盤のレコードを
出したことがありました。
そのときはいやだった。
歌うことにも
レコードを出すことにも
興味がなかったし、
「私の音楽はこうです」
と言えない形で世に出るのは
間違っている、
無意味だと思っていたんです。
でも、それからいろいろ考えて、
自分が
「こういうものを作りたい」
という
明確なビジョンがある作品ならば、
それは世に出したいと
思うようになっていったのです。
これまで聞いたことのない音楽をやりたい、
じゃあどんなものが作れるだろう?
そう考えたとき、
自分が日本人であることは
とても大きなファクターとして使えるな、と。
自分の中で
比較的身近だった日本の音楽が
民謡だったので、
青森の民謡や邦楽の楽器に
ついて勉強して。
「JAPANESE GIRL」は
そうした生まれたのです。
〜〜自分が作りたいものを作る、
その手応えはありましたか?〜〜
もちろん!
今でも
素晴らしいレコードだと思っています。
バックバンドに、
A面は
アメリカのリトル・フィートが、
B面は
細野晴臣さんや林立夫さんといった
ティン・パン・アレー、
あがた森魚さん、
ムーンライダーズのメンバーが
参加してくれて、
純粋に楽しかった。
世の中からも作品を認めてもらって、
それはうれしかったけれど、
一方で「天才」と言われることが
たくさんあって。
とても違和感がありました。
自分が秀でているなんて気持ちは
まったくなかった。
これが私だから――。
ただそれだけでしたね。
(後編へつづく)
◇
矢野顕子(やの・あきこ)
1955年、東京生まれ。
青森で過ごした幼少時から
ピアノを始める。
青山学院高等部在学中から
ジャズクラブなどで演奏、
1976年
「JAPANESE GIRL」でソロデビュー。
1979〜80年、
YMOの2度のワールドツアーに
サポートメンバーとして同行。
1981年、
シングル「春咲小紅」がヒット。
ポップスのフィールドにいながらも、
常にジャンルにとらわれない、
自由・ユニークで質の高い音楽を
生み出し続けている。
1990年、
生活と音楽制作の拠点をニューヨークに移す。
2000年代に入り、
エレクトロニカ系ミュージシャンの
故レイ・ハラカミや、
ジャズピアニストの上原ひろみ
などとコラボ。
2015年、
アルバム「Welcome to Jupiter」
をリリース。
また、20周年を迎えた
「さとがえるコンサート」で
TIN PAN
(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)
と共演、
その模様をおさめたアルバムと
映像作品の2作を発表。
2016年、
ソロデビュー40周年を迎え、
11月30日に
オールタイムベスト
「矢野山脈」をリリース。
矢野顕子 公式ホームページ:
http://www.akikoyano.com/