2016年12月03日

矢野顕子インタビュー(2)

前回の続き、
矢野顕子インタビュー
後編をお楽しみ下さい。

      ☆

デビュー40周年、
築いた“大きな山”をアルバムに

矢野顕子(後編)
2016年11月28日
朝日新聞デジタル

ジャズ、テクノ、ポップス〜〜。
ジャンルという境界線を超え
自由奔放に遊び、
それでいて緻密で繊細な音楽で
聴く者を魅せ続けてきた。

今年、
デビュー40周年を迎える
矢野顕子さんが語る、
「春咲小紅」、
ニューヨーク、
そしてこれから。
(文・中津海麻子)

    ◇

(前編から続く)

「YMOは私にとって新しい体験だった」

〜〜1978年に結成した
イエロー・マジック・オーケストラ
(YMO)に、
サポートメンバーとして
参加しました。〜〜

YMOは、当時の私にとっては
「細野さんの新しいバンド」で、
そのバンドをお手伝いした
という感じでした。

細野さんとは
本当に長い付き合いで、
いまだに
「この間まで17歳だったじゃない?」
なんて言われるんだけど(笑)。

それまでの私は、
自分の中から湧き出てくる音や
リズムをそのままアウトプットして、
聴く方々に楽しんでもらっていた。

でも、YMOの音楽は
決められたリズムがあって、
それをきちんと弾く。

さらに、ピアノじゃなくて
シンセサイザーだったので、
弾き方も違う。

訓練が必要だったけれど、
等しいリズム、
きちんとしたリズムにのっとって
自分を表現するのは、
新しい体験だった。

YMOという音楽のフォーム中の
「一つの部分」を受け持つことも、
私にはとても新鮮でした。

〜〜YMOは
まず海外で大ブレークし、
日本でも
人気バンドという域を超える
社会現象に。
その熱狂の渦中にいて、
YMOはどんなバンドだと
感じていましたか?〜〜

YMOは
世界最高のダンスバンドだった。

インタビューなどで聞かれるたびに
そう答えてきましたが、
その思いは今も変わりません。

音楽自体はテクノだったから
「機械的」と言われ、
確かに音は
機械から出されたものだけれど、
彼らはそれまでになかった
新しいリズムを作ったんです。

そして、
ライブがものすごく
かっこよかった。

何より3人とも
とてもうまかった。
演奏の技術が飛び抜けて
優れていました。

あのころ、
YMOのようなバンドは
世界中どこを探してもなかった
と思いますね。

☆「春咲小紅」が大ヒット

〜〜81年、
化粧品のCMソングに起用された
「春咲小紅」が
大ヒットしました。〜〜

ヒット曲を出すこと、
お金を得ること、
広く自分の名前が
知られるようになること。

どれも興味がなく、
まったく望んでいないことだったので、
正直複雑な気持ちでした。

でも半面、
自分の曲がお茶の間にも流れて、
たくさんの人に知ってもらえる喜びも
感じていました。

1曲ヒットすると、
似たような感じの曲や、
「春咲小紅」が好き
という人たちに受ける、
わかりやすい曲を作るのが
普通です。

でも私はその後、
小学1年の子どもの詞に
曲をつけたりと、
「春咲小紅」で得た
新しいファンには
まったく親切じゃない
アルバムを作った。

そういうところは、
さすが私!
って思います(笑)。

〜〜前年に美雨さん
(ミュージシャン
の坂本美雨さん)
が生まれ、
ワーキングママだったのですね。
子育てをしながらの音楽活動は
大変だったのでは?

もちろん、
小さい子どもを抱えて
仕事をするのは大変でした。

長男のときもそうだったけど、
あちこち連れて歩いて、
そのへんにいる人に
「ちょっと見てて」って(笑)。
スタッフに友だちに
ベビーシッターさんに、
周りを巻き込んで
乗り切っていったように思います。

とはいえ、実は
ほとんど覚えてないんだけどね(笑)。

☆NYに移住したからこそ生み出せた音楽

〜〜90年には一家で
ニューヨークに移住されます。〜〜

当時の夫(坂本龍一さん)の
海外での仕事が多くなり、
東京と行ったり来たりが
大変だったので、
じゃあ引っ越す?
みたいな軽いノリでした。

ただ、子どもたちを
まったく違う文化の中で育てたい
という気持ちが強かった。

自分の常識が通用しない世界、
それが基本なんだっていうことを
教えたかったんです。

そういう意味で、
移住はとてもいいきっかけでした。

〜〜ミュージシャンとして
ニューヨークでも活動を続けました。
ニューヨークはどんな街でしたか?
環境が変わったことで
自らの音楽や創作活動に変化は?〜〜

ニューヨークは
本当に特殊な場所で、
世界中から
自分の音楽を作りたい、
聴いてほしい
という人たちが
集まってくる。
当然競争は激しく、
だからこそ
本気で
ものづくりをしたい人にとっては
最高の環境だと思います。

音楽は
根本的には変わらないですね。
ただ、あのまま
日本に住み続けていたら
できなかった音楽を
生み出せるようになった。
それは間違いありません。

日本にいれば
もっと仕事がしやすいし、
もっと収入も得られるし、
スタッフだって
もっともっと
楽にできることが
たくさんあったでしょう。

でも、新しい曲を作りたい
という欲求や、
作られねばならない
という衝動が続いたかは、
甚だ疑問です。

それまで自分が培ってきた常識が
通用しない世界で、
今から考えると
本当に貧しい英語で、
よく暮らしていたなぁ
と思うんだけど、
そういう中でこそ
「自分は何者であるか」
を深く考える。

そういう状況から生まれる音楽は、
日本にいたらできなかったと思います。

〜〜以来、ニューヨークに
拠点を置きながら、
日本での音楽活動を
続けてきました。
矢野さんにとって、
アメリカと日本、
それぞれどんな場所ですか?〜〜

この前ね、
ジャズピアニストの
上原ひろみちゃんと
話してたんだけど、
成田空港に着いて
ゲートを抜けたあたりに
「おかえりなさい」
って書いてある。

あれを見てどう思う?って。

彼女は「帰ってきた」
って思うんですって。

でも、私は思わない。

私にとっては
「日本に行って、アメリカに帰る」。

それは、
ニューヨークが長い間
家族と暮らした場所だから。
友だちがいて、
生活の基盤がすべてあるから。
今は猫1匹しかいないんだけど、
それでもそこが家であり、
ホームなんです。

〜〜マンハッタンで暮らしていた
2001年9月11日、
アメリカ同時多発テロに遭遇しました。
創作活動への影響はありましたか?〜〜

ワールドトレードセンターから
950メートルの距離にいました。

とはいえ、
私が失ったのは
自宅から見える景色だけ。
何も失っていない。
それでも
計り知れないほどの衝撃を受け、
人種や宗教の問題など
アメリカが抱える様々なことを
目の当たりにしました。

そうした中、
普段はクールで
自我が強いニューヨークの人たちが
みんな助け合い、支え合っていた。
あの光景、雰囲気は
初めて経験するものだった。

そして、
書く歌詞が変わりました。
どんなに目の前に
絶望的な状況があったとしても、
決してそれに甘んじてはいけない、
希望を持って生きていくことが
人間にとってどれだけ大事なことか〜。

そういう思いを
詞に込めるようになったのです。

あのあと日本では
東日本大震災が起きましたが、
おそらく日本の人が
3.11で受けた衝撃と喪失感、
そして再生する力を、
私は9.11のNYで
感じたのだと思います。

☆音楽って、
おいしい料理を作るのと似ている

〜〜ジャンルや年代を超え、
様々なアーティストと積極的に
コラボレーションしています。
共作するモチベーションは?〜〜

たとえば、
この食材と食材を組み合わせたら
思ってもみなかった
おいしいお料理ができた。
そんなとき、作る側も味わう側も
とてもうれしくて、
満足感がありますよね?

それと同じで、
私の中から出てくるものと
相手の方から出てくるもの、
それが合わさって
新しい何かが生まれたときの喜びが、
コラボレーションすることの
楽しみです。

私はどなたともできるので
苦労を感じたことはないけれど、
でも、培ってきたものが違う人とは
共通の言語を見つけなければいけない。

そのための時間と労力は惜しみません。

〜〜お料理のたとえ、
とてもわかりやすいし
楽しいですね!〜〜

でしょ?(笑)
似てるわよね、料理と音楽って。
どちらもありふれたものだけど、
本当においしいものを食べたときの
「ああ、おいしい!」と
感激する気持ちや、
いい音楽を聴いたときの感動は、
どちらも明日への活力になる。

最良の料理、最良の音楽は、
人生の喜びになるんです。

でも、どこにでも
転がっているものじゃない。

材料を厳選したり
ソースを工夫したりして、
「もう一度、この店の料理が食べたい」
と思ってもらえる。

私はそんな音楽を、
これからも作っていきたいですね。

☆デビュー40周年で
「オールタイムベスト」

〜〜今年デビュー40年を
迎えられました。
振り返っていかがですか?〜〜

「40周年ですよ」
って言われて、
「あ、そうなの?」って。

実はあまり覚えてないの(笑)。
言われてみれば
そんなことあったわね、
そういう曲書きましたね、
みたいな程度で。
でも、改めて
自分が録音したものを聴いてみると
「かっこいいじゃない!」
って思うのよ、本当に(笑)。
よくこんなプレーできたわね、
って、
ちょっと自分を
褒めてあげたいですね。

〜〜11月30日には
オールタイムベスト
「矢野山脈」を
リリースされます。〜〜

このタイトル、
自分でつけたんです。
「40周年のベストアルバム、
何かないですか?」って言われて、
即座に「山脈。矢野山脈」って。
苦労して山あり谷あり、
っていうことではなくて、
英語で言う「massive」。
何かどでかい塊、
そういうイメージですね。
40年分たまったら
結構な量になるじゃん?って。

でもその中に、
最良の材料を
あちこちから集めてきて、
おいしいソース作りに
試行錯誤を繰り返して、
という苦労はあった。
まぁそれも、
きれいさっぱり忘れているけど。

〜〜とても得な性格?〜〜

ねぇ(笑)。
過去に作ったものを
今聴いてもらい、
皆さんに喜んでいただけたら、
私、本当にいいことしたなぁ、
ってうれしくなります。

〜〜山脈の先に、
どんな風景が見えていますか?〜〜

宇宙、かしら?(笑)。
自分の音楽を作りたい
という気持ちがある限りは、
作り続けていると思います。
ピアノを弾くのが嫌になったことは、
生まれてこのかた一度もないので。
あ、でも練習はイヤよ(笑)。

  ◇

矢野顕子(やの・あきこ)

1955年、東京生まれ。
青森で過ごした幼少時から
ピアノを始める。
青山学院高等部在学中から
ジャズクラブ等で演奏、
1976年
「JAPANESE GIRL」でソロデビュー。

1979〜80年、
YMOの2度のワールドツアーに
サポートメンバーとして同行。

1981年、
シングル「春咲小紅」がヒット。
ポップスのフィールドにいながらも、
常にジャンルにとらわれない、
自由・ユニークで質の高い音楽を
生み出し続けている。

1990年、
生活と音楽制作の拠点を
ニューヨークに移す。

2000年代に入り、
エレクトロニカ系ミュージシャンの
故レイ・ハラカミや、
ジャズピアニストの
上原ひろみなどとコラボ。

2015年、
アルバム「Welcome to Jupiter」
をリリース。
また、20周年を迎えた
「さとがえるコンサート」で
TIN PAN
(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)と共演、
その模様をおさめたアルバムと
映像作品の2作を発表。

2016年、
ソロデビュー40周年を迎え、
11月30日に
オールタイムベスト「矢野山脈」をリリース。

矢野顕子 公式ホームページ:
http://www.akikoyano.com/


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プロフィール
坂元輝(さかもと・てる)
「渡辺貞夫リハーサル・オーケストラ」で、プロ入り(21歳)。
22歳、自己のピアノ・トリオでもライヴ・ハウスで活動開始。
23歳、「ブルー・アランフェス」テリー・ハーマン・トリオ(日本コロムビア)
以後19枚のアルバム発売(現在廃盤)。
28歳、ジャズ・ピアノ教則本「レッツ・プレイ・ジャズ・ピアノ/VOL.1」
以後14冊(音楽之友社)現在絶版。
ネットで高値で取引されている?
(うそ!きっと安いよ)
他に、2冊(中央アート出版社)。
音楽指導歴40年。
プロから趣味の人まで対象に東京、京都にて指導を続けている。
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