2016年12月02日

矢野顕子ジャズを目指す

矢野顕子が
ジャズ・ミュージシャンを
目指していた頃を語っている
貴重なインタビューがあったので、
ぜひ読んでみて下さい。

あなたの勉強のヒントになることも、
きっとあると思いますよ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〜10代、
ジャズミュージシャンを
ひたすら目指して〜

矢野顕子(前編)
2016年11月24日
朝日新聞デジタル

ジャズミュージシャンになるために
高校を中退し、
10代からレストランやクラブで
ピアノを奏で、
その才能は瞬く間に
音楽業界で注目を集めた。

矢野顕子さんが
青森で過ごした少女時代の思い出から、
プロを目指して働いた夜の世界、
そしてデビューまでを振り返る。

(文・中津海麻子)

       ☆

☆子どもの頃から指の赴くまま弾いた

〜〜幼いころの音楽の思い出は?〜〜

東京で生まれ、
3歳からは医師の父が開業した
青森で育ちました。
両親とも音楽好き、
特に父がハワイの民族音楽や
南米のラテンミュージックといった
洋楽が好きで、
そんなレコードがかかっていましたね。

あとはラジオ。
NHKのFM放送が始まり、
いろんな音楽がラジオから
流れてきたことを覚えています。

最初に買ってもらったレコードは、
ウィーン少年合唱団のLP。
私が欲しいって
おねだりしたんだと思います。
あのころウィーン少年合唱団って、
少女たちのアイドルだったから(笑)。

〜〜ピアノを始めたのは?〜〜

3歳から音楽教室に通い始めました。
おそらく母が、戦争中に
自分がやりたくてもできなかったことを
娘に託した……んじゃないかな。
最初は音楽に合わせて体を動かしたり、
その中で初めてピアノに触れました。

小学校の高学年までは
その教室でピアノを習いました。
ただ、私は
周りのどの子とも違っていた。
譜面が読めないし、記憶するのも苦手。
曲の最初の部分は覚えているんだけど、
楽譜の2ページ目ぐらいから
怪しくなってくる。
でも「まぁいいや」って
指の赴くまま即興で弾き続け、
「そろそろかな?」と
思ったところで終わる。
最初の発表会がそうでした。
辻褄(つじつま)を合わせるのが
うまいのね。
それは今もまったく変わらず、
とても役に立ってるけれど(笑)。

教室は
一人ひとりに合わせた指導をしていて、
そうするとロマンチックな曲は
ほかの子に行ってしまい、
私にはちょっと変わった曲しか来なくなる。
「私はそういうキャラクターなんだな」
と、子どもながらに
なんとなくは感じていましたね。

そのうちジャズが好きになって、
クラシック音楽をやる意味は
自分にはないと
思うようになり、
教室には行かなくなりました。

そこからは独学。
ラジオで聴いた曲を
耳で覚えて弾いてみたり。

中学生になると
父がジャズ喫茶に
連れて行ってくれたので、
そこで聴いたレコードを
なーんとなく弾いてみる。
自分流でね。

☆中学でジャズ喫茶通い、
高校からピアノ弾きの仕事に

〜〜中学生でジャズ喫茶通いとは
渋いですね。〜〜

ね(笑)。
でも、父は私を置いて
別の店に飲みに行っちゃうの。

私は一人カウンターに座り、
コーラとか飲みながら
「次はあれを聴かせてください」
なんて言って。
喫茶店の人も困った顔してた(笑)。

11時ぐらいになると
父が迎えに来てくれて、
一緒に家に帰る。

娘を見ていると、
ピアノを弾いたり
音楽を聴いたりしていることが
一番幸せそうで、
それを伸ばしてあげようと
思ってくれたのかもしれませんね。

〜〜中学卒業後は、
青山学院高校に進学するため
上京されます。〜〜

当時、高校で軽音楽部があるのは
青山学院だけだったんです。
入学式が終わるやいなや音楽室に向かい、
入部しました。
でもすぐに「違うかも」と。

とにかく
ジャズに関係のあるところに行きたくて、
でもその前に高校は出なきゃいけない。
だからここに来た。
すべてはプロの音楽家になるための
手段だったんです。

ところが、当たり前だけど
軽音部の人たちは
そうは思ってないわけで。
ロックが
台頭してきた時期だったこともあり、
先輩たちは
みんなロックをやっていた。

「毎日ジャズを頑張るんだ!」
と勇んでいた私には、
なんだか頼りなく見えちゃったんです。

そんな中、
1年生のときに学内で
作曲コンクールがあり、
ベースとドラムと組んだピアノトリオで
自作曲を発表、優勝しました。

青学は初等科から上がってきた
「内部」の人と、
私のように高校受験で入ってきた
「外部」がいて、
微妙に温度差があってね。

外部の、しかも1年の女の子が
優勝をかっさらった、
っていうのですごく話題になった。

「一体、何者だ?」って(笑)。
そして、
同級生たちが「いい曲だね」とか、
私の存在が「励みになる」とか、
ものすごく褒めてくれたんです。

それまでも
褒められたことはありましたが、
直接に反応を感じたのは初めてだったし、
自分のしたことが誰かの励みになる
ということがうれしかった。

音楽でプロフェッショナルの道を歩む、
それが自分にとって天職なんだと
確信した出来事でした。

そんな私を軽音部の先輩の一人が
おもしろがってくれて、
学校外のジャズのサークルとか
大学のサークルとか、
いろんなところに
連れて行ってくれました。

そうこうしているうちに、
レストランからピアノを弾く仕事を
もらうように。

夜遅くまで働くので、
次の日は朝7時に起きて学校に行く、
ということができなくなって。
高校を辞めました。

〜〜ご両親は反対しなかった?〜〜

二人とも意外とあっさりしていました。
父は「しょうがないんじゃないの?」
という感じで。
さらに、私は当時杉並に住んでいて、
夜までレストランで弾いていると
帰りが遅くなってしまう。
若い女の子がそれでは心配だと、
父が知り合いの安部譲二さんに頼み、
当時赤坂にあった安部さんのご自宅に
居候させてもらうことになりました。

そのころ、安部さんご夫妻が
青山でジャズクラブ「ロブロイ」を
やっていました。
私はあちこちのレストランやクラブで
ピアノを弾き、その仕事が終わると
ロブロイに立ち寄って
安部さんたちと一緒に帰るんです。
そして、やがてロブロイでも
弾くようになりました。

〜〜周りは大人ばかりの中、
10代で働き始めた。
どんなことを感じ、学びましたか?〜〜

私はバンドマンの狭い世界しか
知らなかったけれど、
音楽だけでなく、
社会人として大切なことや礼儀、
女性としての振る舞いは、
ホステスさんや
下働きのお兄さん、
安部さんのお店など、
夜の世界が
教えてくれたように思います。

子どもだったから
すべてを
理解していたわけじゃないけれど、
「そうだったんだ」と思うことは
後になってたくさんありました。

世間的に見れば
健全ではなかったかもしれないけど、
私にとってはとても健全な世界だった。

何よりいろんな音楽を聴いて、
いろんな人とセッションし、
本当に音楽に囲まれて生活していた。

音楽を仕事にしたかった私にとって、
それは幸せな時間でした。

☆アルバム「JAPANESE GIRL」でデビュー

〜〜プロとしてデビューすることへの
ビジョンやプランはあったのですか?〜〜

ありませんでしたね。
ロブロイでは演奏しながら
歌ってはいたけれど、
自分はあくまでもピアニストで、
歌手とは言えないと思っていた。
そもそも、レコードを出したり、
自分が表舞台に立ったり
ということは邪道だ、と。

作曲やピアノの伴奏こそが
私のやるべきことなんだ、という、
バンドマンの誇りみたいなものが
あったのです。

でも、
いろんな場所で弾くうちに
スタジオミュージシャンとして
声がかかり、
作曲家の筒美京平さんが
私のことを
すごく気に入ってくださって、
ご自身のセッションに
よく呼んでくれるように。

そこで人脈が広がり、
当時フィリップスレコードで
ディレクターだった
三浦光紀さんが
私のレコードを作りたい
と言ってくれて。

そして76年、
アルバム「JAPANESE GIRL」で
デビューしました。

〜〜表舞台には出たくない
という心境に
変化があったのですか?〜〜

実はその2年ぐらい前に、
自分のバンドで
シングル盤のレコードを
出したことがありました。

そのときはいやだった。

歌うことにも
レコードを出すことにも
興味がなかったし、
「私の音楽はこうです」
と言えない形で世に出るのは
間違っている、
無意味だと思っていたんです。

でも、それからいろいろ考えて、
自分が
「こういうものを作りたい」
という
明確なビジョンがある作品ならば、
それは世に出したいと
思うようになっていったのです。

これまで聞いたことのない音楽をやりたい、
じゃあどんなものが作れるだろう? 
そう考えたとき、
自分が日本人であることは
とても大きなファクターとして使えるな、と。
自分の中で
比較的身近だった日本の音楽が
民謡だったので、
青森の民謡や邦楽の楽器に
ついて勉強して。

「JAPANESE GIRL」は
そうした生まれたのです。

〜〜自分が作りたいものを作る、
その手応えはありましたか?〜〜

もちろん!
今でも
素晴らしいレコードだと思っています。

バックバンドに、
A面は
アメリカのリトル・フィートが、
B面は
細野晴臣さんや林立夫さんといった
ティン・パン・アレー、
あがた森魚さん、
ムーンライダーズのメンバーが
参加してくれて、
純粋に楽しかった。

世の中からも作品を認めてもらって、
それはうれしかったけれど、
一方で「天才」と言われることが
たくさんあって。
とても違和感がありました。

自分が秀でているなんて気持ちは
まったくなかった。
これが私だから――。
ただそれだけでしたね。

(後編へつづく)

  ◇

矢野顕子(やの・あきこ)

1955年、東京生まれ。

青森で過ごした幼少時から
ピアノを始める。
青山学院高等部在学中から
ジャズクラブなどで演奏、
1976年
「JAPANESE GIRL」でソロデビュー。

1979〜80年、
YMOの2度のワールドツアーに
サポートメンバーとして同行。

1981年、
シングル「春咲小紅」がヒット。
ポップスのフィールドにいながらも、
常にジャンルにとらわれない、
自由・ユニークで質の高い音楽を
生み出し続けている。

1990年、
生活と音楽制作の拠点をニューヨークに移す。

2000年代に入り、
エレクトロニカ系ミュージシャンの
故レイ・ハラカミや、
ジャズピアニストの上原ひろみ
などとコラボ。

2015年、
アルバム「Welcome to Jupiter」
をリリース。

また、20周年を迎えた
「さとがえるコンサート」で
TIN PAN
(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)
と共演、
その模様をおさめたアルバムと
映像作品の2作を発表。

2016年、
ソロデビュー40周年を迎え、
11月30日に
オールタイムベスト
「矢野山脈」をリリース。

矢野顕子 公式ホームページ:
http://www.akikoyano.com/


terusannoyume at 09:37│Comments(0)TrackBack(0) 効果的なアドリブ上達法 | 作曲法あれこれ

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プロフィール
坂元輝(さかもと・てる)
「渡辺貞夫リハーサル・オーケストラ」で、プロ入り(21歳)。
22歳、自己のピアノ・トリオでもライヴ・ハウスで活動開始。
23歳、「ブルー・アランフェス」テリー・ハーマン・トリオ(日本コロムビア)
以後19枚のアルバム発売(現在廃盤)。
28歳、ジャズ・ピアノ教則本「レッツ・プレイ・ジャズ・ピアノ/VOL.1」
以後14冊(音楽之友社)現在絶版。
ネットで高値で取引されている?
(うそ!きっと安いよ)
他に、2冊(中央アート出版社)。
音楽指導歴40年。
プロから趣味の人まで対象に東京、京都にて指導を続けている。
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